自分の信仰が弱いから夫が変わらないの?|信仰と結婚に悩むクリスチャン女性へ

未分類

「もし、私の信仰がもっと強かったら…」
「私がもっと立派なクリスチャンだったら、夫もきっと心を開いてくれたに違いない…」

夜、隣で眠る愛する夫の穏やかな寝顔を見つめながら、まるで冷たいナイフのような自己嫌悪の言葉が、あなたの胸に突き刺さることはありませんか。

日曜日の朝、一人で教会へ向かう寂しさ。
教会で、夫婦そろってにこやかに奉仕している姉妹の姿が目に入るたびに、チクリと痛む胸。
分かち合いで語られる「夫が祈りに協力してくれて…」なんていう幸せそうな話を聞くたびに、自分だけが取り残されたような焦燥感に駆られる…。

その一つ一つの出来事が、「どうして、うちは違うんだろう?」という問いとなって、重く心にのしかかります。
そして、その問いの矢印は、いつしか自分自身へと向けられていくのです。

「私が、だめなんだ」
「クリスチャンとして、妻として、何かが足りないんだ」

その考えは、やがて見えないけれど重い鎖となって、あなたの心をがんじがらめに縛り付けます。神さまの前にさえ、ありのままの心で出ることができなくなり、「こんな弱い信仰の私の祈りなんて、きっと聞かれていない…」と、深い孤独の闇に沈んでしまうのです。

もし今、あなたがそんな苦しみの中にいるのなら、少しだけ私の話を聞いてください。
何を隠そう、かつての私も、その重く冷たい鎖を引きずりながら、出口の見えない暗いトンネルを独りで歩き続けていた一人だったのですから。

なぜ私たちは「自分のせいだ」と思い込んでしまうのか

この苦しみの根っこは、一体どこにあるのでしょうか。夫を愛しているからこその悩みですが、なぜその矛先が「自分の信仰の弱さ」に向かってしまうのでしょう。長い間、私もこの問いと向き合ってきました。そして、いくつかの理由が見えてきたのです。

1. 無意識に作り上げた「信仰の公式」

私たちクリスチャンは、知らず知らずのうちに、心の中に「もし私がAをすれば、神さまはBをしてくださるはず」という、まるで数学の公式のようなものを組み立ててしまうことがあります。

ノンクリスチャンの夫を持つ妻の場合、その公式はこんな形になりがちです。

(私が熱心に祈る + 私が聖書をたくさん読む + 私が完璧なクリスチャン妻として振る舞う) = 夫が救われる

この公式を信じ込んでいると、夫が変わらないという「結果」が出ないとき、その原因を「自分の努力不足」、つまり「信仰の弱さ」に求めてしまいます。「ああ、私の祈りが足りなかったんだ」「もっと聖書を読まなければ」「私の行いが良くなかったから、神さまは働いてくださらないんだ…」と。

これは、旧約聖書のヨブの友人たちがしたことと、どこか似ています。彼らは、ヨブが苦しみにあっているのを見て、「きっとお前が何か罪を犯したから、神がお前を罰しているのだ」と決めつけました。彼らもまた、「正しい行いには祝福、悪い行いには罰」という単純な公式で世界を理解しようとしたのです。

しかし、神さまの働きは、私たちの考えつくような単純な公式には当てはまりません。夫の救いという、一人の人間の魂に関わる偉大な御業は、私たちの「頑張り」や「正しさ」を対価に交換できるようなものではないのです。この誤った公式が、私たちを律法主義の罠に陥れ、自分を責めさせる大きな原因となっています。

2. 周囲との「比較」が生む劣等感

教会は、愛と励ましの共同体であると同時に、時として「比較」の苦しみを生む場所にもなり得ます。特に、自分と同じように結婚している姉妹たちが、夫婦で信仰生活を送っている姿は、眩しく、羨ましく、そして時に深く心をえぐります。

「あの姉妹は、いつもご主人と一緒でいいな…」
「うちもああなれたら、どんなに素晴らしいだろう…」

その純粋な願いは、いつしか「それに比べて、私は…」という劣等感に変わっていきます。SNSを開けば、家族で礼拝に行ったという投稿や、夫婦でデボーションをしたというキラキラした証が目に飛び込んできます。もちろん、その喜びは本物でしょう。しかし、孤独の中で戦っている自分にとっては、その光が強ければ強いほど、自分の影が濃く見えてしまうのです。

私たちは、他人の「ハイライトシーン」と、自分の「舞台裏」を比べてしまいがちです。しかし、どの家庭にも、外からは見えない祈りがあり、葛藤があり、涙があります。見えている部分だけを切り取って自分と比較し、「私の信仰が足りないから、うちはこうなんだ」と結論づけてしまうのは、あまりにも早計で、自分を不必要に傷つける行為なのです。

3. 愛ゆえの「責任感」という重荷

そもそも、私たちがこれほどまでに悩むのは、夫を心から愛しているからです。その魂が永遠のいのちを得てほしいと、切に願っているからです。その愛と願いは、神さまから与えられた、とても尊いものです。

しかし、その尊い責任感が、いつの間にか「私が、夫を救わなければならない」という、背負いきれないほどの重荷に変わってしまうことがあります。まるで、救いの主役である神さまの役割まで、自分が担おうとしてしまうかのように。

「私がもっとうまく伝えられれば…」
「私があの時、ああ言っていれば…」

過去の言動を悔やみ、未来の戦略を練り、夫の一挙手一投足に一喜一憂する。彼の魂の救いという、壮大なプロジェクトの全責任が、自分の双肩にかかっているかのように感じてしまうのです。この「私がやらなければ」という過剰な責任感が、結果が出ないことへの焦りを生み、最終的に「私には力がない」「私の信仰が弱いからだ」という自己否定へと繋がっていくのです。

燃え尽きた私に差し込んだ、神さまからの光

かつての私も、まさにこの3つの罠にどっぷりと浸かっていました。
「完璧なクリスチャン妻」になることで、神さまに私の頑張りを認めてもらい、その「ご褒美」として夫の救いを勝ち取ろうと、必死にもがいていたのです。

毎朝、夫が起きるより一時間も早く起きて、リビングでひざまずきました。「主よ、夫の心を開いてください」と涙ながらに祈り、聖書を開き、マーカーで線を引きました。日中は、家事を完璧にこなし、不平一つ言わず、いつもニコニコと笑顔でいることを自分に課しました。まるで、神さまが私の生活態度を採点していて、合格点に達したら奇跡を起こしてくれる、とでも言うかのように。

しかし、その「努力」は、私の心を潤すどころか、どんどん乾かせていきました。
祈りは義務になり、感謝は消え、心の中は「まだ救われない」という焦りと不満でいっぱいになりました。夫の何気ない一言に過敏に反応し、テレビを見て笑っているだけの姿にさえ、「神さまのことなんて、少しも考えていないんだ…」と心の中で裁いてしまう。

家庭に平安をもたらすはずの信仰が、皮肉にも、家の中にピリピリとした緊張感を生み出していました。信仰の話をしようものなら、夫は露骨に嫌な顔をするか、静かにその場を立ち去るようになりました。彼は、私の言葉の背後にある「あなたも信じるべきだ」という無言のプレッシャーと、私の「正しさ」を鋭く感じ取っていたのでしょう。

そして、ついにその日はやってきました。
ある夜、すべての気力が尽き果て、私はリビングの床に崩れ落ちました。もう祈る言葉さえ出てこない。ただ、「神さま、もう疲れました…。私の力では、何もできません…」と嗚咽するだけでした。頑張っても頑張っても、状況は悪くなるばかり。夫の心はますます固くなり、私の心はボロボロに擦り切れていました。

まさに、無力感のどん底。暗闇の中で、独り。
その時でした。
これまで何度も読んできたはずの、一つの御言葉が、まるで初めて聞くかのように、力強く私の心に響いてきたのです。

「わたしの恵みは、あなたに十分である。というのは、わたしの力は、弱さのうちに完全に現れるからである。」
(コリント人への手紙 第二 12章9節・新改訳 2017)

涙で滲む視界の中で、この御言葉が、温かい光のように私を優しく包み込みました。
ハッとしました。
神さまは、私の「強さ」や「熱心さ」、「完璧さ」を求めていたのではありませんでした。むしろ、私の「弱さ」、私の「無力さ」、私の「もう何もできません」という正直な叫びを、ずっと待っておられたのです。

夫の救いは、私の頑張りに対する報酬ではない。
神さまの力は、私が強い時にではなく、私が自分の弱さを認め、完全に降参した時にこそ、最も完全に現れるのだと。

それは、まさにコペルニクス的転回でした。
私が主役だと思っていた物語の主役は、ずっと神さまでした。私が背負っていると思っていた重荷は、もともと神さまが背負ってくださるものでした。私が自分の力でコントロールしようとしていた夫の心は、初めから神さまの御手の中にあったのです。

その瞬間に、何年も私の肩にのしかかっていた重い、重い荷物が、すっと軽くなるのを感じました。それは、諦めの涙ではなく、解放と感謝の涙でした。

「私の弱さ」こそが、神さまの力が働く場所になる

その夜を境に、私の祈りは180度変わりました。

以前の祈り:「神さま、どうか夫の固い心を変えてください!私がもっと頑張りますから!」
新しい祈り:「神さま、私の心はこんなにも弱く、すぐに夫を裁いてしまいます。こんな私を憐れんでください。あなたの愛で、まず私のこの乾いた心を満たしてください。」

「夫をコントロールしようとする祈り」から、「自分の弱さをありのままに告白し、神さまに委ねる祈り」へと変わったのです。

完璧なクリスチャン妻を演じるのもやめました。
祈れない日は、「神さま、ごめんなさい。今日は祈る気力もありません」と正直に打ち明けました。
夫の態度に心がざわついたときは、「主よ、また心が揺れています。助けてください」と、すぐに助けを求めました。

それは、「弱さ」を認める勇気でした。強い自分を演じるのをやめ、弱い自分、不完全な自分、ダメな自分を、神さまの前に隠さずに差し出すこと。旧約聖書のダビデが、詩篇の中で嫉妬や怒り、絶望といった生々しい感情を神さまにぶつけているように、私も自分のありのままを神さまに差し出すようになりました。

不思議なことに、私が「立派であろう」とすることをやめたときから、家庭の空気は少しずつ、しかし確実に和らいでいきました。肩の力が抜け、いつも何かに追われていた私の表情が柔らかくなったからかもしれません。私の内側が、自分の力ではなく神さまの恵みで満たされるようになったとき、その平安が、言葉以上に夫に伝わっていったのです。

ある晩、一緒にテレビを見ていた時、夫がぽつりと言いました。
「なんか最近、お前の雰囲気、柔らかくなったな。前みたいにピリピリしてないし、一緒にいて楽だよ」

その言葉は、どんな慰めの言葉よりも力強い、神さまからの「OKサイン」のように聞こえました。ああ、神さまは本当に働いておられる。私が力ずくで変えようとするのではなく、私が神さまによって内側から変えられるとき、周りの状況も静かに変えられていくのだと、心から知ることができました。

今、自分を責めているあなたへ

この記事を読んでくださっているあなたに、心からお伝えしたいことがあります。

夫が変わらないのは、決してあなたの信仰が弱いからではありません。

どうか、もう自分を責めるのはやめてください。あなたは十分に戦ってきました。一人で重荷を背負い、涙を流し、祈ってきました。その痛みも、孤独も、神さまはすべてご存じです。

あなたの「弱さ」は、欠点ではありません。それは、神さまの偉大な力が働くための「スペース」なのです。あなたが「もう無理です」と両手を挙げた場所から、神さまの御業は始まります。

もし今、心が疲れ果てているなら、今日から少しだけ、意識を変えてみませんか。

自分を責める言葉を、感謝の言葉に変えてみる。
「私の信仰が弱いから…」という声が聞こえたら、すぐに「いいえ、こんな弱い私を、神さまは愛してくれている。感謝します」と打ち消してみてください。

祈れない日は、「祈れない」と祈る。
無理に立派な祈りをしようとしなくて大丈夫です。「神さま、今日は心が重くて祈れません。それでも、あなたを信頼します」と、正直な気持ちを伝えるだけで、それは立派な祈りです。

自分のための「喜びの時間」を作る。
夫の救いのことばかり考えず、まずあなた自身が神さまの愛で満たされる時間を持ってください。好きな讃美歌を聴く、美しい景色を見に散歩する、信頼できる友人と話す…。あなたの心が喜ぶことは、決してわがままではありません。あなたが満たされることが、家族への最高の贈り物になるのです。

この信仰の旅路は、時に本当に孤独です。でも、あなたは決して独りではありません。今この文章を読んでいるあなたと同じように、日本のどこかで、世界のどこかで、同じように祈り、戦っている姉妹たちがいます。そして何よりも、あなたのそばには、どんな時もあなたから目を離さず、「わたしの目には、あなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している」と語りかけてくださる神さまがおられます。

あなたの存在そのものが、神さまにとってかけがえのない宝物なのです。
そのことを、どうか忘れないでください。


誰にも言えない痛みを、分かち合いませんか?

この記事を読んで、少しでも心が軽くなったと感じてくださったあなたへ。
この悩みは、一人で抱え込むにはあまりにも重すぎます。私も長い間、一人で苦しんできました。もしよろしければ、LINEで繋がり、あなたの心の重荷を少しだけ聞かせていただけませんか。

√ LINEにご登録いただくと、特典として、
「夫婦関係の中で信仰を守り抜くための3つの視点」
というPDFを、お友だち登録してくださった方全員にお届けしています。

今すぐ LINE で特典を受け取る

あなたの弱さも、涙も、沈黙も、神さまはすべてご存じです。

あなたのありのままの姿が、神さまの目には「高価で尊い」のです。
その真実を胸に、今日も神さまと共に、一歩ずつ歩んでいきましょう。

プロフィール
Ainobi

40代主婦のAinobiです
元ノンクリスチャンの夫と結婚13年。
わかり合えなかった日々も、今ではいい思い出。
悩むあなたに、そっと寄り添えますように🍀

Ainobiをフォローする
未分類
シェアする

コメント

信じる妻と、信じない夫。

タイトルとURLをコピーしました