信仰の孤独に負けそうな夜に支えられた御言葉
🌙「神さま、私の声は、届いていますか…?」
夜、家の中が静寂に包まれる時間。
隣の部屋からは、愛する夫の穏やかな寝息が聞こえてきます。
その平和な寝息が、かえって私の心を深い孤独の海へと沈めていくのです。
「今日も、信仰の話はできなかったな…」
声にならないため息が、暗闇に溶けていきました。
夫は心から優しい人です。私がクリスチャンであることも、日曜日に教会へ行くことも、文句一つ言わずに受け入れてくれています。家事も手伝ってくれるし、私の話をよく聞いてくれる、素晴らしいパートナーです。
でも、ただ一つ、信仰の話になると、そこにはいつも、見えないけれど確かに存在する、厚くて冷たいガラスの壁が立ちはだかるのです。
それは「無関心」という名の、決して越えられない壁。
この壁に触れるたび、私の心はきゅっと痛みました。
教会で兄弟姉妹と分かち合った喜びも、御言葉から受けた深い慰めも、人生で最も大切なパートナーである夫と共有することはできない。
この信仰の道を、私は結局、たった一人で歩いているのではないか。
そんな思いが、じわじわと心を蝕んでいきました。
■「いってらっしゃい」が、寂しかった日々
日曜日の朝。
聖書とノートをバッグに入れ、玄関へ向かう私に、夫はリビングのソファから顔を上げていつものように微笑みます。
「いってらっしゃい。気をつけてね」
その優しさに感謝しながらも、心のどこかでチクリと痛みが走る。
「あなたも一緒に行けたら、どんなに素晴らしいだろう…」
その言葉は、もう何年も前に飲み込む癖がついていました。
以前、勇気を出して誘ってみたことがあります。「一度だけでいいから、一緒に行ってみない?」と。彼の答えは、優しく、しかし決定的なものでした。「ごめん、俺はいいや。君が楽しんでくるのが一番だよ」。
その一言で、彼の心の中に、信仰が入るスペースは全くないのだと悟ってしまったのです。
それ以来、私は家庭の中で信仰の鎧を脱ぎ、神さまについて語る口を固く閉ざすようになりました。
🌱「夫の救いのために」と祈り続けたけれど…
結婚したばかりの頃は、希望に満ちていました。
「私が神さまを心から愛し、喜んで仕える姿を見ていれば、きっと夫の心もいつか動かされるはず」
そう信じて、毎晩、夫の救いのために熱心に祈りを捧げていました。彼の枕元で、眠っている彼の頭にそっと手を置いて祈った夜も数えきれません。
けれど、一年、二年、五年と月日は流れても、夫の心に信仰の芽が出る気配は一向にありませんでした。
それどころか、私が教会での出来事を話そうとすると、「へぇ、よかったね」とテレビを見ながら相槌を打つだけ。その目は、画面に釘付けのままです。その態度に、私の心は少しずつすり減っていきました。
私の熱心さが、かえって彼にプレッシャーを与え、心を閉ざさせているのかもしれない。そう思うと、何も言えなくなってしまいました。
祈りの言葉も、次第に力を失っていきました。
「神さま、なぜですか?こんなに祈っているのに、何も変わらないじゃないですか」
教会で、夫婦で仲良く奉仕をしている兄弟姉妹の姿を見るたびに、胸が締め付けられました。「どうして、うちは違うんだろう…」。
熱心だった祈りは、いつしか神さまへの不満と、自分の無力さを嘆く独り言に変わっていきました。そしてついには、祈ること自体が義務となり、ただ形式的に言葉を口にするだけの、空しい時間になってしまったのです。
🌸疲れ果てた心で開いた、一筋の光
そんなある夜のことです。
その日も、夫との間に流れる微妙な距離感と、埋まらない心の溝に疲れ果てていました。
もう祈る気力さえ湧かず、ただ呆然とリビングの椅子に座っていました。心の中は、まるで真っ暗なトンネルのようでした。
ふと、テーブルの上に置きっぱなしになっていた聖書が目に入ります。
「読んだって、どうせ何も変わらない…」
そう心の中でつぶやきながらも、まるで何かに引かれるように、私はその聖書を手に取りました。
ぱらぱらと、意味もなくページをめくる指が、ふと止まった場所。
そこに記されていた御言葉が、闇の中にいた私の目に、サーチライトのような強い光となって飛び込んできたのです。
「わたしの目には、あなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している。」
(イザヤ書 43章 4節・新改訳 2017)
その瞬間、時が止まったかのようでした。
堰を切ったように、涙があとからあとから溢れて止まりません。
でも、それはいつもの孤独や悲しみの涙ではありませんでした。凍てついていた心の奥深くが、温かいもので満たされていくような、そんな涙でした。
■「私」を見ていてくださった神さま
夫が信じてくれないこと。
家庭で信仰の喜びを分かち合えないこと。
私はずっと、その「欠けた部分」ばかりを見つめて、自分の価値まで見失っていました。
「信仰を分かち合えない妻なんて、クリスチャンとして失格なんじゃないか」「私がもっと立派なクリスチャンだったら、夫は信じてくれたのかもしれない」と、自分を責め続けていました。
でも、神さまの言葉は違いました。
「夫がどうであるか」という条件付きではなく、「あなた自身が、高価で尊い」と、私の存在そのものに語りかけてくださったのです。
孤独に震える私の存在そのものを、夫の反応とは全く関係なく、神さまが絶対的に肯定し、愛してくださっている。
その事実が、氷のように冷え切っていた私の心を、じんわりと、しかし確実に溶かしていきました。
「あなたは、決して独りではなかった」
誰にも言えなかった心の叫びも、飲み込んできた祈りも、神さまはすべてご存じだったのです。
夫という一番近くにいる人に理解されない痛みも、神さまはすべて知った上で、「わたしはあなたを愛している」と語ってくださっている。
その気づきは、私の信仰人生における、大きな大きな転換点となりました。
🌱祈りが変わると、世界が変わる
その夜を境に、私の祈りは180度変わっていきました。
以前の私は、自分の孤独を埋めるために、「神さま、夫を変えてください」と必死に祈っていました。
夫が変わることだけが、この苦しみから解放される唯一の道だと信じていたからです。それは祈りの形をした、神さまへの「要求」でした。
しかし、神さまが私自身をどれほど愛し、大切に思ってくださっているかを知ったとき、祈りの焦点が、外側(夫)から内側(私)へと移ったのです。
まず求めるべきは、夫の変化ではなく、私自身の心が神さまの愛で満たされることでした。
「神さま、私のこの渇いた心を、まずあなたの愛で満たしてください。そして、そのあふれる愛をもって、夫を愛するための力を、私に与えてください。」
そう祈るようになったとき、心に不思議な平安が訪れるのを感じました。
状況は何も変わっていません。夫は相変わらず信仰に無関心です。
でも、私の心の土台が、「夫の反応」という不安定な砂地から、「変わることのない神の愛」という揺るがない岩盤へと移されたことで、以前のように心が揺さぶられることが格段に少なくなっていったのです。
🌸「生き方」で示す信仰 ~私が始めた3つのこと~
神さまの愛に満たされることを祈り始めてから、私は意識的に3つのことを実践するようになりました。それは「信仰を語る」のではなく「信仰を生きる」ための、小さな一歩でした。
1.夫の「好き」を、私の「好き」にしてみる
以前は、夫が夢中になっている趣味(例えば釣りやゲーム)に全く興味がありませんでした。しかし、「神さまが愛しておられる夫が、こんなに楽しんでいるものは何だろう?」という視点で、彼の話に耳を傾けるようにしたのです。「今日は何が釣れたの?」「そのゲーム、どういうところが面白い?」と質問すると、夫は嬉しそうに話してくれました。彼の世界を尊重し、共有しようとすることで、心の距離が少し縮まった気がしました。
2.「ありがとう」を具体的に伝える
当たり前になっていた夫の優しさや協力に対して、改めて感謝の言葉を伝えるようにしました。「いつもお仕事ありがとう、本当に助かってるよ」「ゴミ出ししてくれてありがとう、嬉しかった」。小さな感謝を言葉にするたびに、自分の心も温かくなるのを感じました。不満を探すのではなく、感謝を探す毎日は、家の中の空気を明るくしてくれました。
3.自分のための「喜びの時間」を作る
夫の救いのことばかりを考え、自分を追い詰めていた私でしたが、「神さまに愛されている自分を大切にしよう」と思えるようになりました。好きな音楽を聴く時間、友人とカフェでおしゃべりする時間、美しい景色を見に散歩する時間。そうやって自分の心を喜びで満たすことは、決してわがままではなく、信仰の旅を続けるために必要な燃料補給なのだと気づきました。心が満たされていると、自然と夫にも優しくなれるのです。
■静かな変化、そして希望の兆し
不思議なことに、私が「夫を変えよう」とすることをやめ、ただ神さまの愛に満たされることを祈り、自分の行動を少しずつ変えていってから、家庭の空気が目に見えて変わってきました。
ある晩、一緒にテレビを見ていたとき、夫がぽつりと言ったのです。
「なんか最近、お前の雰囲気、柔らかくなったな。前みたいにピリピリしてないし、一緒にいて楽だよ」
その言葉は、私にとってどんな慰めの言葉よりも力強い、神さまからの「OKサイン」のように聞こえました。
私が信仰について熱く語らなくても、私の内側にある神さまからの平安と愛が、静かに、しかし確実に夫に伝わっていたのです。
ああ、神さまは本当に働いておられる。
私が力ずくで変えようとするのではなく、私が神さまによって内側から変えられるとき、周りの状況も静かに変えられていくのだと、心から知ることができました。
🌱孤独は消えない。でも、独りではない。
正直に告白すると、今でも信仰の孤独が完全になくなったわけではありません。
教会で夫婦そろって礼拝している姿を見ると、羨ましく思う気持ちがゼロになったわけではありません。ふと、寂しさが胸をよぎる夜もあります。
でも、以前の私とは決定的に違うことがあります。
それは、「どんな状況の中にも、神さまは私と共にいて、私のすべてをご存じである」という揺るがない確信です。
この確信は、嵐の海における錨(いかり)のようです。
たとえ孤独の波が押し寄せても、私の心は神さまという岩に固く結び付けられているから、もう絶望の海に流されることはありません。
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🕊️神さまは、あなたの涙も沈黙も知っています
誰にも言えなかった痛みも、
飲み込んできた祈りも、
神さまはすべて覚えておられます。
あなたが信じるその歩みに、神さまは必ず豊かな実を結ばせてくださるでしょう。
あなたの存在そのものが、神さまの目には何にも代えがたい「高価で尊い」宝物なのですから。
🌱神さまと共に、今日も歩んでいきましょう。
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