💧否定はされない。でも、そこに“壁”がある
「それ、信仰のこと?」
私が話そうとすると、夫はよくそう言います。
そして、軽く笑って、話題を変えてしまいます。
怒っているわけでも、拒絶するわけでもない。
だけど、聞いてくれるわけでも、関心を持ってくれるわけでもない。
📌否定されているわけじゃないのに、
なぜか、深く傷ついてしまう。
そんな感情に、あなたも覚えがありませんか?
🌙ある日曜日の夜、礼拝で心が満たされて帰宅した私は、
ふと、メッセージで心に響いた聖書の言葉を夫に伝えたくなりました。
「今日の礼拝ね、“わたしはあなたと共にいる”っていう御言葉があって…」
と話し始めたその瞬間、夫はこう言いました。
「…ふーん。まあ、信じるのも自由だけどね」
それだけ言って、スマホに視線を戻してしまったのです。
🌫️無関心は、否定よりも深い孤独を生む
その態度に、私は言葉を失いました。
「あ、またダメだった…」
胸の奥に、冷たい水が流れ込むような感覚。
責められたわけじゃない。
怒られたわけでもない。
でも、何かが「通じない」ことが、こんなにもつらいなんて…。
否定されるよりも、
“存在ごと無視されるような感覚”のほうが、痛いと感じたのはそのときでした。
⛅たとえるなら、
“分厚いガラス”をはさんで、夫と向き合っているような感覚。
私は必死で語ろうとしているのに、
その声はガラスにぶつかって、届かない。
向こう側の夫は、のんびりテレビを見ていたり、スマホを触っていたりする。
そしてこちらの心の叫びには、気づいていない。
📌「どうして伝わらないんだろう」
「私の信仰って、そんなに価値のないものなのかな」
そんなふうに思い始めると、
信仰を持っていること自体に、自信が持てなくなる日もありました。
🌱“話すこと”ではなく“祈ること”に向かった日
その夜、私は祈りました。
涙が止まらないまま、静かにこうつぶやきました。
「神さま、わかってもらえないのが、こんなにも苦しいです」
「私が信じているものが、まるで“透明”のように扱われるのがつらいです」
「でも、あなたは、私の信仰を見てくださいますよね?」
📖そのとき思い出したのが、マタイ6章6節のこの言葉です。
「隠れた所で見ておられるあなたの父が、あなたに報いてくださる。」
この聖句が、私の胸に深くしみわたりました。
🌸そうか、神さまは“見ていてくださる”。
たとえ誰にも伝わらなくても、
誰にも共感されなくても、
あなたにだけは届いている。
この確信が、私の心にそっと光を灯してくれたのです。
🕊️あのとき私は初めて、
“信仰を守る”ということは、
“無理に語ること”ではなく、
“黙って委ねること”なのかもしれないと気づきました。
そして、“見えないけれど確かな存在”である神さまと、
“目の前にいるけれど信じていない”夫の間で、
私は“愛”をもって立ち続ける必要があるんだと感じたのです。
🌿“伝わらない”時間の中でも、神さまは共におられる
夫と日常を過ごす中で、信仰に関する話題だけが、
まるで“タブー”のようになっていきました。
楽しく会話していても、
「教会でね…」「聖書にこう書いてあってね…」と口にした瞬間、
空気がすっと冷える。
📌それが何度か続くと、
自然と私は信仰のことを“話さないように”なっていました。
💭でも、話さないことにしたからといって、
心が楽になるわけではありません。
むしろ、信仰が“孤立”していくような、
まるで“神さまだけが私の味方”になってしまうような、
そんな苦しさがありました。
「この家に、神さまと私しかいないみたい」
そんな思いが、心にしずかに積もっていったのです。
💡神さまは、何も言わずに働かれることもある
ある日、私は疲れた表情で帰宅した夫に、
お茶を淹れて、「おつかれさま」とだけ声をかけました。
その瞬間、夫が言いました。
「…ありがとう。今日、仕事でめちゃくちゃ嫌なことあってさ。
誰にも言えなかったけど…お前にだけは話せるわ。」
彼はぽつぽつと、仕事での悩みを話し始めました。
📌私は、ただ黙って聞いていました。
「聖書にはこう書いてあるよ」とも、「祈ってるよ」とも言いませんでした。
けれど心の中では、
「神さま、ありがとうございます。私を“話せる場所”にしてくださって」
そう静かに祈っていました。
🌼その夜、夫は少し穏やかな顔で眠っていました。
私は気づいたのです。
伝えようとしなくても、
“愛し続ける”ことが、
“聞き続ける”ことが、
信仰を伝える最も深いかたちになることもあるのだと。
📖聖書に、こんな言葉があります。
「行いのない信仰は、それだけでは死んだものです。」(ヤコブ2:17)
この“行い”とは、大きなことではなく、
日々の生活の中で、「愛する」「祈る」「寄り添う」という、
静かで、小さな、でも確かな行いのことだと思うのです。
🌸自分の心が折れそうなときに覚えていた御言葉
信仰を無視されるように感じる日々は、
時に、自分の存在ごと“軽んじられている”ように思えてしまいます。
でも、そんな私の心を支えてくれた御言葉があります。
「あなたがたの中に良い働きを始められた方が、
キリスト・イエスの日までにそれを完成させてくださると、私は確信しています。」
(ピリピ1:6)
📌信仰の実が、今見えなくてもいい。
神さまが始めてくださった働きは、
かならず完成へと導かれるのだと信じて、
“今日できること”を積み重ねることが、
わたしにできる最善の道だと、教えられました。
🌟無関心の向こうにあった“変化”
月日が流れ、夫は相変わらず信仰に深い関心を示すわけではありませんでした。
でも、ある日、こんなことがありました。
私が体調を崩して、教会に行けなかった日曜日。
夕方、ソファに座っていた私に、夫がそっと言いました。
「今日、教会行けなかったね。
…でも、そのぶん、ここで静かに祈ればいいんじゃない?」
📌その言葉に、私は一瞬、耳を疑いました。
彼の口から“祈る”という言葉が出たのです。
もちろん彼は、信じたわけではありません。
でも、“私にとって大切なこと”を、
“否定せず、受け止めようとしてくれた”その姿勢が、
私には大きな慰めとなりました。
📖私はこの言葉を思い出しました。
「愛は寛容であり、愛は親切です。また、人をねたみません。
愛は自慢せず、高慢になりません。」(第一コリント13:4)
「愛する」ということは、
相手が完璧であることを期待することではなく、
“そのまま”を受け止め、信じて、待ち続けることなのだと思いました。
🌈“信仰は無視されている”のではなく、“見守られていた”
私の信仰は、夫には届いていないと思っていました。
でも実は、彼はずっと“見ていた”のかもしれません。
・日曜の朝、支度をして教会に行く姿
・子どもと一緒に祈る姿
・食卓で自然に御言葉を口にする私の表情
📌そのすべてが、彼の中に“静かにしみ込んでいた”のかもしれない。
それを思ったとき、私は
「無視されていた」のではなく、
「守られていた」のだと気づいたのです。
✨神さまは、私の祈りを、
見えないところで、少しずつ、確かに、
応えてくださっていた。
📖だからこそ、次の御言葉が、まるで神さまの語りかけのように響きました。
「あなたの働きと愛を、神は決してお忘れにはなりません。」
(ヘブル6:10)
神さまは、すべてを見ておられる。
夫が変わらなくても、会話がなくても、
私の“日々の信仰”と“祈りのことば”を、
天がちゃんと覚えていてくださるのだと確信しました。
🕯️信仰は、語るよりも“生きる”こと
夫との会話が少ない日もあります。
信仰の話を避けたくなる日もあります。
でも、私は今日も、
日常の中で、小さく祈り、静かに信じています。
📌「神さま、どうかこの家にあなたの平安を」
📌「夫の心に、あなたが触れてくださいますように」
このような祈りが、
ある日、小さな実を結ぶことを信じて。
私が“話すこと”をあきらめた日、
代わりに始まったのは“生きる信仰”でした。
それは、
・怒りに対して沈黙する
・傷ついても祈る
・あたたかく笑う
そんなささいな積み重ねでした。
でも、その一つひとつに、神さまが働いてくださると信じています。
📖最後にこの御言葉を、あなたと分かち合いたいです。
「あなたの光を人々の前に輝かせなさい。
人々があなたの良い行いを見て、天におられるあなたの父をあがめるようになるためです。」
(マタイ5:16)
私たちの信仰は、
必ず誰かの心に“光”となって届いていきます。
それが明日かもしれないし、
何年も先かもしれません。
でも、信じてきた歩み”は決してむだにはなりません。
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天の父は目を注いでおられるのです。
🌿神さまと共に、今日も歩んでいきましょう。
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